この国譲りの神話は日本の神話の一つです。
「古事記」と「日本書紀」にちょっとずつ違う点はあるものの大まかに同じお話が描かれているようです。
葦原中国(あしはらなかつくに)についてもその場所はどこなのか諸説あるようです。出雲地域であったとか現世の地上の国であったとか。
とりあえず、天上界である高天原(たかまがはら)ではない地上の国と解釈して読むとわかりやすいと思います。
それではざっくりとお話を綴ります。
国譲り神話
天照大神からの使者
昔々、大国主命(おおくにぬしのみこと=出雲大社の神様)は葦原中国(あしはらなかつくに)を治め、誰もが楽しく穏やかに暮らしておりました。
高天原(たかまがはら=天上界)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ=伊勢神宮の神様)は葦原中国を見て言います。
「葦原中国は私の子供が治めるのがいいでしょう」
そう言うと、天照大神は様々な神様を使者として葦原中国へ送りだしました。
ところが何人使者を送ろうとも葦原中国から戻ってくる者はおりません。
そこで自らの子である天穂日命(あめのほひのみこと)を使わせるものの大国主命の配下となってしまい帰ってこない。
次に天若日子(あめのわかひこ)という神様を使わせたものの、今度は大国主命の娘と結婚してやはり帰ってこない。
最後の使者
葦原中国へ出した使者が誰一人として帰ってこないので、天照大神は武力での解決を決断します。
そこで使いに出されたのが武力の神様である
「武甕雷男神(たけみかづち=鹿島神宮の神様)」
「経津主神(ふつぬしのかみ=香取神宮の神様)」
足が速く船の神様である「天鳥船神(あめのとりふねのかみ) 」。
天照大神から使わされた二人の神は出雲の国の稲狭の浜(現在の稲佐の浜)に降り立ち言いました。
「天照大神様は葦原中国を御身子(自分の子)が治めることが良いと仰せである。葦原中国を明け渡してもらいたい」
国を譲るように迫られた大国主命は自分の2人の息子にも意見を聞いてもらうよう返答しました。
大国主命の2人の息子
そこで、使者二神はまず釣りをしていた事代主神(ことしろぬし=全ての事を知る宣託の神様、恵比寿様のこと)に天照大神へ国を譲るかを聞くと、譲っても良いとの返答を得ます。
次に建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大社の神様)に聞きに行きました。
すると腕に覚えのあった建御名方神は力比べを申し出ます。
しかし、腕に覚えのあるのは使者も同じ。
あっさりと建御名方神は負けてしまい、敗走してしまいます。
その敗走の後、使者へ完敗した旨を伝えた地が信濃(現在の長野県)です。
なので諏訪大社は長野にあるのです。
その建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大社の神様)が力比べの際に投げたという「つぶて岩」(だと思う)がこちら。
おわり
2人の息子が国譲りを承諾したことを聞いた大国主命は国譲りの条件として
「天照大神様のような大きな宮殿に住まわせていただきたい」
と伝え、それを使者が承諾したことで大国主から天照大神への国譲りが成立します。
古代の出雲大社
古代の出雲大社は96メートルの高さ?
本殿の高さ約24m、大屋根の面積で言えば180坪という破格の大きさを誇る出雲大社。古代の本殿はさらに大きく、高さ48m、または96mの高層本殿だったという説があるのをご存知だろうか?
96mというのはさすがに信憑性が疑われているが、2000年に出雲大社境内から、直径約1.35mの巨木を3本組にして1つの柱とする、1248年(鎌 倉時代)に完成した巨大柱が発見されたことからも、48m説は実存した可能性が指摘されている。48mといえば、現代でも15階建てのビルに相当する高さ だ。
出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっている。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っている。
日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった? | 住まいの「本当」と「今」を伝える情報サイト【HOME'S PRESS】 より
大国主命が天照大神が住まうほどの大きな宮殿に住みたいと言ったその「大きな宮殿」がこれほどというのも、ちょっとロマンのある話だと思います。